去りゆく猫の後ろ姿で思い出したこと
猫写は流行っているかと思うけど、自分は撮れない…。が、たまたま引きずられるように撮ったのがこの一枚。
夕日と黒猫なのが何ともタンゴの雰囲気に包まれているが、私がカメラを構えた途端に去りゆく割り切り感が猫らしい。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「ティファニーで朝食を」トルーマン・カポーティ
「ティファニーで朝食を」はラブ・コメディーではない
ヘップバーンの映画のイメージ(観たことないです、すみません)が強いかもですが、原作はそれほど甘い内容ではない。
訳者の村上春樹は「訳者あとがき」で、主人公ホリーの天真爛漫さを述べるが、私は無垢というより純粋に上昇志向が強い向上心ある女性と読んだ。
それだけに、いろいろ夢?破れて行き場を失い、世間から身を隠すときになって飼い猫をいきなり捨ててしまう。
「ねえ、どう思う? このあたりって、お前みたいなタフ・ガイにはお似合いの場所じゃないこと。ゴミ缶やら、ネズミの大群やら。ごろつき猫たちともお仲間になれるわ。さあ、お行き」、彼女はそう言って、猫を下に降ろした。
僕は呆然としていた。「なんてことをするんだ。なんてひどいことを」
と(一応)反論する。すると
「前に言ったわよね。私たちは川べりで出会ったのよ。それだけのこと。どっちも一人きりで生きていくの。お互い何の約束もしなかった。私たちは何のー」(以下、略)
ホリーは強がりを言う。もちろんここでは、猫の境遇に自分の境遇を被せている。この後、ホリーは僕に捨てて見失った猫をもう一度見つけ出して欲しいと言い残し去る。
僕は長らく猫を見つけることができなかったが、ある日幸せそうなこの猫を見つけ、未だ再会できないホリーも幸せになっていてくれたら…と願う。
そしてきっと猫は落ちつき場所を見つけることができたのだ。ホリーの身にも同じようなことが起こっていればいいのだがと、僕は思う。そこがアフリカの掘っ立て小屋であれ、なんであれ。
原文も引用しておこう。
for I was certain he had one now, certain he’d arrived somewhere he belonged. African hut or whatever, I hope Holly has, too.
ここでの”he”は、猫ですね。
カポーティの小説は好きで(多分)一通り読んだし、再読もしている。どれもハッピーエンドではない。人生の見えそうで見えてない薄暗い闇を具体的に描くカポーティの小説を自分は好きなんだと思う。
満たされている人生ほど、退屈なものもないからね。