蓮(はす)の花ははかない雰囲気たっぷり
「諸行無常の響き」は平家物語ですが、いつの時代でも栄枯盛衰しみじみ感じる時がある。
そんな日本的なうつろいを感じるには、神社よりお寺かな。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「新源氏物語(下)」田辺聖子(新潮文庫)
ようやく読み終えた下巻であった
原典の巻序列(全54帖)と比較し、下巻に含まれているのは(これまでの形式に倣って記載しておくと)次のとおりで、第41帖辺りで終了している。
- 第32帖 梅枝(うめがえ)
- 第33帖 藤裏葉(ふじのうらば)
- 第34帖 若菜(わかな)
- 第36帖 柏木(かしわぎ)
- 第37帖 横笛(よこぶえ)
- 第38帖 鈴虫(すずむし)
- 第39帖 夕霧(ゆうぎり)
- 第40帖 御法(みのり)
- 第41帖 幻(まぼろし)
- 第41帖? 雲隠(くもがくれ)※原文では本文なしらしい
以降、薫の君と別の貴公子の話になるようだけど、田辺訳ではそこまで踏み込んでないので、詳細はまたの機会へと。
- 第42帖 匂宮(におうみや)
- 第43帖 紅梅(こうばい)
- 第44帖 竹河(たけかわ)
- 第45帖 橋姫(はしひめ)
- 第46帖 椎本(しいがもと)
- 第47帖 総角(あげまき)
- 第48帖 早蕨(さわらび)
- 第49帖 宿木(やどりぎ)
- 第50帖 東屋(あずまや)
- 第51帖 浮舟(うきふね)
- 第52帖 蜻蛉(かげろう)
- 第53帖 手習(てならい)
- 第54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし)
上巻・中巻はこちらを参考に。
それにしても、正直辛かった。一言で言えば、無情&無常な話が多くて暗いせいなのか、読んでも読んでも前に進めない……
愛憎の渦に巻きこまれたとき、女の同情や共感は、たやすく皮肉や好奇心に裏返るのである。
おお!また面白くなるかな?と期待しても、具体的な展開が乏しい。
そのまま、結局
源氏は、入道の手紙で、人の運命のふしぎさ、人に愛され、神仏に扶(たす)けられ、生かされている人間のふしぎさを、若い女御の君に知って欲しいと思う。
とか
源氏は筍を取り上げながら、薫をかわゆく思う。(略)この子が生まれるべくして、宮と柏木との不幸な恋があったのだろうか、これも前世に定められた宿縁かもしれない……
というように、運命論的なまとめが多くなってしまう。時代が時代なので、若い人の急死も違和感ないだけに、関係者の死が立て続いて今ひとつ盛り上がりに欠けてしまう。仕方がないことですが。
ほぼ結末に近いところで源氏がつぶやく
「もののあわれ、というのは単に恋や愛情から生まれるのではないね。その人といかに深く広く、人生でかかわりあったかということなのだよ。夫婦だったからあわれをおぼえるのではない。幼い時から育てて、何十年かを共に暮らし、あまりにも共有した思い出が多すぎるのでね……」
は、いいなと思った。
自分独り者で友達も多くはないが、逆にこの人とは一生付き合うだろうな、と思う人々が少なからずいる。すでに15年〜20年と共通の過去があるのだから、今後もそういう関係を大切にしてゆきたいし、希薄な人間関係が多い昨今でも、その思いが大事なんだと意識する価値はあると思う。
最後のおせいどん(田辺女史)からの言葉だが、
わが男友達カモカ氏は、読んで退屈きわまりないところがある、源氏物語は女のおしゃべりの集大成みたいなもんで、一千年の間、面白いといって読んできたのは女だけやないか、なんて珍説を申し立てておりますけれど、それはどうでしょうか。
自分は結構楽しく読んだ。そして、次回は誰の訳を読んでみようか…
戦後、与謝野晶子先生のを読みまして、これは意訳なので、よくわかって、新鮮な感じがしましたね。(略)ただ、あまりにも近代的すぎて、面白いことは面白いんですけれど、あの、平安という時代の香りがもうちょっと出てもいいな、と思ったりしたものです。
とある。確かに。読みやすくなればなるほど、時代の香りが飛んでしまうのがハードルだけど、そのハードルがあるからこそ、楽しめるのかもしれない。谷崎潤一郎訳は古典調がもっと残している(その分、読みづらい)らしい。
勿論、先覚の御研究にずいぶんたすけられました。特に円地文子先生の現代語訳は、素晴らしいお仕事とですね。現代の言葉にするのが難しくて、考えても考えても解らない部分に行き当たったりしたときに、円地先生の訳を拝見させて頂きますと、本当に見事な現代語で、これ以上の言葉が見つからない、という場合がしばしばありました。
なので、次回は「円地訳→与謝野訳→谷崎訳→原文」と読み進め、きっと原文に辿り着くころには、自分も立派?な高齢者になっているんだろうな。