開高作品は20代の若い頃からポツポツ読んでて、ベトナムへ行ってみたい!と思っていたのは氏の作品による。と言って、サイゴンに行ったのは2000年なので、もう20年以上も過去になる。
実は開高氏が、かつて自分が暮らす杉並区(わりと近所)に住んでいたという再発見により、改めて読み返したいと思うようになった。自分にとって開高氏は太目の男性という認識だったのに、細身の時代があり、それが何とも松田龍平っぽい雰囲気!という新発見とともに。
文庫概要
タイトル | 歩く影たち |
著者 | 開高健 |
出版社 | 新潮文庫 |
各中編の表紙にも、山下氏による口絵が掲載されていた。個人的には(失礼なことに)あまりシンクロしていない… と思いつつ、このよくわからない感じが実はいいのかなとも。
内容紹介
タイトルもよく分からなかったのだが、文庫本後ろの説明書きによれば、
人の生は歩く影にすぎぬ(シェークスピア『マクベス』)
からの引用らしい。いろいろ、こだわりを感じる。
ラインナップは次の通り。
- 兵士の報酬
- フロリダに帰る
- 岸辺の祭り
- 飽満の種子
- 貝塚をつくる
- 玉、砕ける
- 怪物と爪楊枝
- 洗面器の唄
- 戦場の博物誌
- 後記
「フロリダに帰る」では、柳原良平氏と通称ナベさん登場。
岸辺の祭り
アメリカンな大尉と行動するのだが、この大尉の殺戮と休暇に自費で楽器を誂え村に慰問に訪れる対比を描いている。こういう対称的な行動をとるアメリカ軍の様子を読むと、この戦争の複雑怪奇な側面に考えさせられる。
おだやかに話しながら大尉は眼に暗い痛恨をうかべていた。しかし久瀬は、大尉が、あらゆる否定的な材料にもかかわらず、やっぱり無傷でいるのを感じた。その純潔は昨日血まみれになったばかりなのに奥処では完全に殺菌されたままのようであった。
貝塚をつくる
この作品はベトナム戦争と直接的な関係は薄く、どちらかと言えば、華僑の良い意味での貪婪(ひどく欲が深いこと)な行動を釣りを通して描いている。
それでも時間が余ってならないので、女漁りか釣りかに精をだすのだけれど、いつもおなじ顔ぶれの仲間なので、いささか食傷しているところへ私があらわれたので、懈怠の眠りからむっくり体を起した、というところであった。貪婪は貪婪、精巧は精巧のまま、全域で質と量を更新したらしかった。
むかしから常々感じていたが、開高氏は「官能」(感覚器官を通して得られる快さ。特に肉体的、性的に得られる感覚や快楽。)を追求する作家だと思っている。
翌朝になってそれをふりかえり、官能は一つのきびしい知性にほかならないのだと、さとらされるのだ。貪婪な蔡の眼にしばしば近頃の私は冷徹な賢者の片影を見るようになっている。
戦場の博物誌
これはベトナム戦争に限らず、一時期開高氏が血の匂いが漂う場所に赴いた理由かなと自分は思っている。
異国の血みどろの惨禍を目撃してリポートを各仕事をきれぎれながらも、もう十年間、私はやってきたが、いつもその場にたって地べたによこたわって呻吟する人を、助けもせず、祈りもせず、ただ手をぶらさげたままでまじまじと上から見おろしているだけの姿勢、そして大後方の空調のきいたホテルの部屋でうつろで激しい文章を書くだけのこと、それでいくらかの稿料をポケットにすることに、そこはかとなく、いいようのないコンプレックスを感じている。やましさを感ずる。
後記
繰り返しになるが、自分は結構開高氏の東南アジアに由来する作品を読んでいるけど… う~んんん、好きとも嫌いとも言えない、妙な感想を持つ。
しかし、おびただしく血と影をあたえられることがあったので、後日になって作品を書かずにはいられなかった。そこでのこの十五年間に東南アジアを舞台にしてぽつりぽつりと書いた短篇を集めると、この一冊になった。
いずれ、官能や血なまぐさい?雰囲気に吸い寄せられて、また拾い読みする可能性あるかな? それよりも、やっぱり釣りとかお酒の話の方が好きかな。
この1冊でした(Amazon)
新潮社より集英社の方がかっこいい!