ブローティガン作品において御多分に洩れず、独特の雰囲気がブラッシュアップした内容。
Contents
文庫概要
タイトル | 芝生の復讐 |
著者 | リチャード・ブローティガン |
訳者 | 藤本和子 |
出版社 | 新潮文庫 |
内容紹介
ショートっぽい作品がまとまり、緩いストーリーを保って話が展開するが、タイトル説明ではないけど次から物語は始まる。
前庭はおれに対して反感を抱いている、といって、彼はそれを憎んでいた。ジャックがそこへやってきたころには、まだ美しい芝が生えていたのに、彼がそれを台無しにしてしまったのだ。水をまくこともなければ、手入れなどいっさいしなかった。
原書タイトルは「Revenge of the Lawn」なので、邦訳でも割とではなく、そのまんま。芝生の復習ではないけど、自分もサボテンや観葉植物をダメにしたことが思い出される。
他方、アメリカの平凡な日常生活が具体的に描かれる。「きれいなオフィス」を読んでる限り、これまた自分の職場が思い出される。
そのオフィスで働いている男たちはみんな中年で、若いときはハンサムだったろうと想像させるようなところは微塵もなかった。そればかりか若いときがあったとさえ思えなかった。こちらがひとり残らず名前を覚えようとしてもすぐに忘れてしまうようなタイプだ。
そんな超平凡な日常生活に関わらず「相棒」では、妙な場面が描写される。読みながら、これは著者の頭の中だけの光景ではなく、きっと実在したのでは?と自分の妄想が広がる。
その映画館は黒人たち、ヒッピーたち、年寄りたち、船乗りたち、それに、映画にはそれまでかれらの身に起こったできごとに劣らない現実性があるのだから、映画に話しかけるという天真爛漫な人たち。
それにしてもこの一文、原文だとどう表現されているかが気になるけど、日本語の文章としては妙なユーモアを感じる。
そんなこんながあって、「許してあげよう」で白々しく語る。
リチャード・ブローティガンが鱒釣りとそれをとりまく環境の万華鏡を『アメリカの鱒釣り』という小説であますところなく書いたことを承知のうえで、わたしも同じテーマで書こうとするのはやや気がひける。
「訳者あとがき」で訳者は説明するのだけど、自分は訳者が解説するほど著者は考えていない気がする。ただただ直感的に文章を述べているのではないかと。それをきちんと訳して言葉として説明できるのが素晴らしいなと思う。
笑いもせずに、笑いを綴る。もちろん感傷主義というようなものと、メランコリーは違う。(略)その存在の状態としてのメランコリーを手がかりにすると、ブローティガンの作品の複層的な時間、過去が現在に流れこみ、現在が過去を掘り起す、その意識の運動の背景がわかるかもしれないと、仮説的に考えてみる。
wikipedia の引用になるけど…
日本では翻訳家の藤本和子がその著書のほとんどを翻訳し、時として原文以上とも評されたその清新な訳文は、日本における翻訳文学の系譜の上で重要なものである。
実際の英文はわりとシンプルらしいから、自分でも読めるかもしれない。しかし、その文章から著者が表現したかったことを文章にする意訳はもはや藤本女史による作品なのだと思う。