中上健次。やや重いけど、独自の世界観は悪くないかなと。
山々に囲まれた日本昔ばなしのような風景だけど
そこで暮らすことを前提としなければ、ただただ紅葉が綺麗な土地でしかない。
Nikon D7200 with SIGMA 18-300mm
その閉鎖的な環境における血縁関係に呪いを感じ呪縛されているのが、中上健次の小説なのか?
山々に囲まれた土地は他にもあるかもしれないが、ネガティヴなりに独自の世界観を形成(大げさかな)したところは、サーガ(神話)かなと。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「岬」中上健次(文春文庫)
wikipedia からの引用になるけど、「紀州サーガ」というのがいいね。
後に知り合った年長の友人である柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナーの影響で先鋭的かつ土俗的な方法論を確立、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」のなかの共同体を中心にした「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。
「サーガ」(=神話)というには澱んでいるけど。
部外者には心地よい風景ではあるが…
以前から、中上健次(の代表作)は読んでおきたいと思っていたが、なにぶんにも、どこから手をつけてよいのか、わからずにいた。数年前、リストラになって失業保険をもらいつつ時間がたっぷりあって、日本映画を見まくっている時に「千年の愉楽」を観て、実際読んでみたものの今ひとつ納得はできずにいた。何故?
とっつきにくかった。やっぱり、自分でこの地を感じてみないと!と思うようになった。
今回熊野古道を歩いてみて、地元を愛する語り部さんが「死人が多くて中上健次の小説は好きになれない」という本音に共感はできた。それでも、実際にこの地に行ってみると中上が表現したことが(なんだか)実感できるようになり、人に勧めるつもりはないが、割と好きな世界だなと納得できた。
ということで、芥川賞受賞となった彼の初期の代表作「岬」から読んでみることにした。
この家は、不思議な家だ、時々、彼はそう思った。母ひとり子ひとり、父ひとり子ひとりの四人で暮らしていた。
淡々とした描写だけど、裏を返せば… 誰もが適当に子供を作っては別の人と家族を形成している。それを彼は「澱(よど)んだ血」という。
特に掘り方は、好きだった。なによりも働いたという感じになった。この単純さが好きだった。
そのように自分の身内を卑下しつつ、単純な肉体労働には健全を見出してそれを愛していた。
余計なものをそぎ落としたい。夢精のたびに、そう思った。
そして、常々「澱んだ血」の循環から抜け出したい気持ちを、「余計なものをそぎ落とす」と表現する。
息がつまった。彼は、ことごとくが、うっとうしかった。この土地が、山々と川に閉ざされ、海にも閉ざされていて、そこで人間が、虫のように、犬のように生きている。
誰彼構わず交わうことを、山々と川や海に閉ざされる土地環境のせいにする。
だが、女を知らなかった。知りたくなかった。余計なもの、やっかいなものに自分をかかわらせ、汚したくなかった。
主人公(むかしの自分をオーバーラップ)は男性なので、異性である女性が関わってくると「余計なもの」と嫌がる。
土方は、彼の性に合っている。一日、土をほじくり、すくいあげる。(略)日が、熱い。風が、汗にまみれた体に心地よい。
そしてまた、肉体労働を喜ぶ。
いったい、どこからネジが逆さにまわってしまったのだろう、と思った。
よくよく読むと、「澱んだ血」→「余計なもの」→単純な肉体労働で「余計なもの」「澱んだ血」を洗い流す→「澱んだ血」というテーマが繰り返されている。
義兄には、この血のつながりだけでも、分かり難いはずだった。(略)変な、血のつながりだ、と思った。姉だけがおかしいのではなく、もともと、この血のつながりがおかしい。濁っている。上機嫌の姉を見ているだけで、息苦しい。
また「澱んだ血」という抽象的なものを具体的に表現することとして、実体験に基づいて異父兄の首吊り自殺や異父姉の狂気などを描く。
義兄の視界から、この岬を隠したい気がした。自分一人のものとしておきたい、誰にもみられたくないと思った。
義兄とは、再々婚した母の相手の連れ子のことで、主人公より2つほど年上。ここで「岬」には主人公の思いが託され擬人化されているようだ。
彼の作品は、アメリカのノーベル賞であるフォークナーになぞらえているが、そんな作風もまんざら嫌いでない。『岬』の続編で代表作となる『枯木灘』、その続編として『地の果て至上の時』で三部作とうたっているようだから、この辺まではボチボチ読んでみるかな。