「記憶の繪」「朽葉色のシヨオル」森鴎外の娘姉妹

森鴎外娘姉妹によるエッセイ集

森茉莉は森鴎外の長女、小堀杏奴は次女で6歳離れているから、一緒に育ったとは言え精神的にはやはり上下関係ができてしまうかなと。亡くなったのは長女84歳、次女89歳だからお互いそれなりに人生は生き抜いた感じはある。

蛇足だけど、鴎外亡くなったのは前者19歳ですでに結婚し、夫にくっついてフランス滞在中、一方の後者はまだ13歳だから父親恋しい年頃だったかもしれない。加えて、前者は2回の離婚の後、戦後は変わり者のばあさまとして文筆業で生き延び、後者は相思相愛の旦那と添い遂げ、横光利一の息子と結婚した娘と医師になった息子と(一般的には)幸せと思える人生を送ったようにも感じる。

もちろん、どっちが幸せとか、どっちが金持ちとか、そういう比較は意味がない。世間一般的には、「鴎外をしのぶ」系の企画で遺族としての見解を求められる機会が多かったのは、後者のようだ。前者は自他共に認める変わり者のようだったし、それはそれで互いに納得していたのではないかと。

しかし、本書を読む限りでは、互いへの言及はほぼなく親密な姉妹ではなさそうだ。まあ、それはそれで仕方がないことで、そんな余計なことを念頭に置きつつ読むと、二人の個性についての妄想も膨らみ楽しく読めた。

文庫概要

タイトル記憶の繪
朽葉色のシヨウル
編者森茉莉
小堀杏奴
出版社旺文社文庫
この写真にちなんで、こちらの文庫を紹介したい。

内容紹介

「記憶の繪」

全体はタイトルがついた2~3ページの小文で回想風なエッセイが110章ほどで語られてて、まさに文庫本タイトルどおりの装い。「贅沢貧乏」を何度か読んでいるので、世界観や特徴的な文体の想像はついていたけど、期待以上に面白かった。というのも…

パリ滞在時に覚えた好物の卵だとかバターの話にも共通するが、独特なその特長が食べ物だけでなく、衣類や宝石そして人間関係の綾にも及んでいた。

例えば「着物」

私は子供だったが、明治の女の人の色気と情緒にはいろいろ原因があるが、冷たい縮緬を皮膚に感じるところからも出て来たものだと思う。

これは祖母(鴎外の母)について語っているところ。偉大な父にあまりにも甘やかされて育てられたというのが、本人も語る通り重要な背景だけど、その母に当たる祖母を冷静に分析している。

そして、結婚し留学する夫に呼ばれて1年ほどパリ生活を送るわけで、それはそれで読み応えのある話が尽きないが、個人的に気になったのはモーパッサンに触れているところで、ますますモーパッサンに自分は興味を抱いた。

「続・ホテル、ジャンヌ・ダルク」では

彼ら巴里人たちも全くの巴里人の生活を私たちの前に隠さないわけで、私は全くのところ、モオパッサンの小説の頁の中にいる自分を感じていた。

そして、今回発見だったのが、10歳年齢の離れた夫・山田珠樹とパリ生活を共に過ごした親友・矢田部達郎という人のこと。当初は何気なく登場していたが、現地でもかなり男ぶりがよくモテたのでしょうか、だんだんとその男の魔性ぶりが帯びて…

「花火」

(略)薔薇色の消えた、暗い、現実の世界の中で、矢田部達郎の目が白く光るのを見た。無数の蛇を咥えこみ、それを餌にして育った鷹のような彼の目は、薔薇色の光の中よりも現実世界の暗がりの方が似合っている。

どのような方かとwikipediaで調べてみると、「帝大教授、助教授でエロ行為が直接原因となって辞職を迫られたのは稀な事といはれてゐる」とあるので、男性フェロモンに満ちた方だったのかしらと。なお解説は、白石かずこ(1931年生まれでまだご存命のよう)女史で、森茉莉さんの魅力をわかりやすく説明してくれてて、逆にこの方のことも気になってしまった。

「朽葉色のシヨオル」

こちらは、大きく2作品が収められている。

  • 朽葉色のシヨオル
  • 鴎外から太宰まで

前者にタイトルと同じ作品名のエッセーを含む27作品、後者には12作品が収められている。

「朽葉色のシヨオル」では

私は生まれつき頭が悪く、平凡至極の人間であるせいか、どうかすると今になっても女の生活は、待つということにあるのではないか? といった感じさえすることがある。

わりと控え目な性格、まあ上記のような姉を見て育った反面教師的な背景もあるのではないかと自分は妄想する。

ちなみにタイトルは、かつて母が編んでくれたお気に入りショールに由来するもので、その朽葉色(くちはいろ)にも愛着を感じていたらしい。まだ若い女性なのに、地味な色合いを好む自分が自分らしいと、かなり冷静に分析している。なお、表紙の絵は夫・小堀四郎画伯によるもの。

作品そのものとタイトルの強い関連性はないけど、ステキなタイトルだなと思った。ご本人自身、自分を象徴するものと意識されているのかなと。

後者の作品「鴎外から太宰まで」では、興味深い分析をしていた。ここで言う祖父とは無論森鴎外の父のこと。

祖父の日常生活を観察していると、父が遠い向うにある何ものかを望んで、目前のことをいいかげんに済ませて行くのに反して、祖父は一見つまらなく見える日常のことも、全精神を集中している事実に気がついた。

姉・森茉莉の著書からは現れない視点のような気がした。なぜ次女がそのようなことに気づいたか不明だけど、ひょっとすると自分との同じ血をこの祖父に感じていたのかもしれない。往々にして、天才的な優秀な人は「遠くのものを目指し、ドンドン前進」の傾向はあるなと納得。

他にも「鴎外から太宰まで」の作品の一つで、「火吹竹」として永井荷風にも触れている。鴎外と荷風も文学史上は接点のあった二人だけど、まあ、その辺の事情は抜きに、夫婦で荷風とは付き合いがあったらしい。

先生は二回に互る結婚に失敗し、その後は生涯独身で通された事は人のよく知る所だが、処女を犯さず、人妻とのかかわりを持たぬ事実を自身記しておられ、交渉を持つのは主として売春を業とする女性達であったのだから、少なくとも情事によって他人に迷惑を与える事は殆んど無かったのではあるまいか!

文末の!に本人の思いが少し込められている気がした。

多少の贔屓目を差し引いても、言ってることは正論だけど、少々生々しい弁護かなと。否、逆にその生々しさが読んでて楽しかったりした。うふふ。

この1冊でした(Amazon)

茉莉姉さんはちくま文庫、妹は講談社学芸文庫でありましたね。