大雪に遭遇すると低血圧気味に興奮する
2017年スキーシーズンも終盤を迎えつつあるが、昨年12月の湯沢の初滑りでこんな光景の遭遇したら、やっぱり「雪国」を読みたくなる。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「雪国」川端康成(新潮文庫)
やっと川端康成の世界観が伺いしれたかも
川端康成もいろいろ攻めているところで、また「雪国」読んでみた。そして、自分にどんな気持ちの変化があったかは秘密?であるが、ようやくわかった気がする。
この冒頭は何度読んでもいい。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
しかし、これまではこの後に続く小説の世界に自分はハマれずにいた。
しかし彼は嘘を言ったわけではなかった。女はとにかく素人である。彼の女ほしさは、この女にそれを求めるまでもなく、罪のない手軽さですむことだった。彼女は清潔過ぎた。一目見た時から、これと彼女とは別にしていた。
露骨に言えば「女を買う」描写にも関わらず、うっすら推測はできてもここから展開される世界を理解できなかったのである。そして、主人公の駒子は、この越後湯沢の田舎において独学で練習した三味線を東京から来た島村(男)に聴かせるのであるが、その音色から
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。
細かい手の器用なさばきは耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手なのであろう。
と思わせる描写などが、改めて川端ワールドらしいなと自分は好きになった。自分が弾くピアノと比べるつもりはないが、音楽を奏でるとはこういう一面も持ち合わせるのかなと。
山麓のスキイ場を真横から南に見晴らせる高みに、この部屋はあった。
ここは小説の世界観に及ぼす影響は薄いが、この辺はすでにスキーでも有名な土地だったのだなと自分には刺さった。ちなみに、「雪国」は昭和10年から断続的に書き継がれていたらしい。そのせいか、わりと時間的経過を追うとわかりにくいとこもあり、
その三年足らずの間に三度来たが、その度毎に駒子の境遇の変っていることを、島村は思っていた。
急にこのような記述があると、あ!ここは書き継いだとこかな?と思ったりする。妙に時間軸の整理が行われている気がする。そして、やがて結末に近づくにつれて、駒子が急に
朝の七時と夜なかの三時と、一日に二度も異常な時間に暇を盗んで来たのだと思うと、島村はただならぬものが感じられた。
と、事件性をにおわす記述が出てくる!
「雪国」は何度か読んでいるけど、実はこれまで自分のうちでは理解できなかった。それが、今回(やや)衝撃的な結末だったのか… と理解した。あからさまにその結末を書くのもいただけないので、昭和22年に発表された伊藤整の解説を引用しておく。
生きることに切羽つまっている女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(おのの)いている島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐えられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持っているのである。
なるほどね。フランス映画的セ・フィニ。
他にも、冒頭から出てくる「村の繭倉兼芝居小屋」とか、やや唐突に登場する布の「縮(ちぢみ)」(越後縮かな)とか、いろいろ気になる仕掛けもあり、やっぱり名作は読めば読むほど味わいがある。多分、来シーズンも初滑りで越後湯沢に行って「雪国」を読みたくなって、ブログを書いているかもしれない。