言い切ると負け犬なりの生き方とは?
つかみ?というほどパワーのある画像ではないが、犬の写真を選んでみた。
動物って撮り慣れていない。まあ、動物に限らないが。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「恥辱」J・M・クッツェー
(ハヤカワepi文庫)
英国ブッカー賞作品は気になる
近頃、井伏&太宰を読み続けていたので、全く毛色が違うものを読みたいと、長年で積んでいたクッツェーを読んだ。クッツェーを温めていたのは… ノーベル賞&ブッカー賞受賞作品で、翻訳者が鴻巣友季子女史が手がけているなどの理由がある。
自分、わりと翻訳者で本を選ぶ志向があり、鴻巣女史はone of my favorite translators(いきなり英語)でいて、ブッカー賞にも関心があるだけに読むことを楽しみにしていた。それにしても、ブッカー賞作品は意外にメジャー出版社から文庫本になっていないのだが、ニーズは乏しいのかな。
とにかく、クッツェー氏の作品は初めて読むし、宣伝文句程度の予備知識しかないが、wikipediaによれば
数々の装いを凝らし、アウトサイダーが巻き込まれていくところを意表を突くかたちで描いた。その小説は、緻密な構成と含みのある対話、すばらしい分析を特徴としている。しかし同時に、周到な懐疑心をもって、西欧文明のもつ残酷な合理性と見せかけの道徳性を容赦なく批判した
とのこと。外見だけだと白人なので英国人?と思ってしまうが、南アフリカ生まれの南アフリカ育ちで、オランダ系移民を主体としたアフリカーナーという家系の方らしい。こういうちょっと異色な雰囲気も自分の興味をそそる。
のっけから、大学教授は生徒を誘惑しセクハラで失職するものの、自己弁護することなく落ちるところまで落ちてゆく。
まるで子どもじゃないか! 彼は思う。まだほんの子どもなんだ! おれはなにをしている? と思いつつも、胸には欲望が彷徨く。
自分の行動を認識しているのに、本能の赴くまま落ちてゆく。
彼は素直に従うが、車に乗りこむや、強烈な失意と倦怠を感じ、ハンドルにつっぷしたまま動けなくなる。
色の誘惑に負けただけの作品ならノーベル賞にはたどり着かず、読者としてはこの先に何があるのかが気になる。
もっと体を密着させようと、片足を彼の腰にかけてきたのだ。かけた太股の内側の腱が締まると、歓びと欲望を強烈に感じた。
前半はモリモリに下世話な小説空間を演出し、その分後半との対比が際立つかもと読了して思った。
それにしても、開き直る感覚には、自分も妙に共感してしまう天邪鬼な思いが… ないわけでもなかったりする。
わが心は、古くさくて役立たずで貧困でほかに行き場を失った考えの隠れ家だ。そういう考えは追いだして、家屋をきれいに掃除すべきなのだろう。だが、そんな気はない、さらさら無い。
で、ここから先はそれなりの展開がある。
しかしそれは南アフリカという社会で起こるものであり、正直東京で暮らす自分にとっては実感しづらい部分もあるが、共感できる部分もある。
動物は彼女を信用し、彼女はその信用を利用して彼らを始末する。さて、ここから導きだされる教えとは?
ペットの殺傷に関するとこ。
彼女とは、主人公の娘が暮らす地域で、娘が信頼を寄せる女性(ベヴ・ショウ)なのだが、理想と現実に折り合いをつけつつ犬猫の殺傷処分をしている。この女性、ベヴは外見的な魅力に乏しい女性で、主人公も見下しておきながらも肉体関係をもち、割り切りながら共に殺傷処分の仕事を続ける。
子羊を抱くように犬を腕に抱き、手術室にもどる。「その子はあと一週間、生かしてやるものと思ってました」ベヴ・ショウが言う。「手放すのですか?」
「ああ、そのつもりだ」
結末はザラザラ乾いた感じになるのだが、決して不快なものではない(と自分は感じた)。救いはあるか? ないか?というのは人によって意見も別れると思うけど… 現実を生きてゆくための気持ちの在り方を示しているのではと自分は解釈した。