二条城は初代家康より15代慶喜が似合うかな
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「真田太平記」
第八巻・紀州九度山
第九巻・二条城
池波正太郎(新潮文庫)
舞台は東・信州から西・京や大阪へ
関ヶ原も終わり、豊臣家の終わりが始まっている。
「第八巻・紀州九度山」では、関ヶ原で気炎を吐いた真田親子(父&次男)は紀州へ流刑となる。
物語は繋がり、やれやれなのだけど… この巻は主に真田親子の隠密部隊の諜報作戦であった。
佐助らしい若者を見かけたと知らせてよこしたまでで「別段のことともおもわれませぬ」と、わずかに書きしたためてあるのみだ。
しかし、真田信幸は、この書状を繰り返して読み、何故か、黙念となったまま、長い時間をすごした。
佐助とは、猿飛佐助であるが、ここでは池波版の佐助である。
天性の素質を備えた佐助なのに、うっかり見つけられて徳川側の信州にいる長男・信幸に報告される。致命的な何かに繋がる訳ではないのだが、父の隠密部隊が人知れず活動を続けていることに、機転の利く長男は一抹の不安を抱く。
伏線張ってます。
と、あるように、十余年の蟄居の倦怠が、しだいに真田昌幸の生気を奪ってしまったのであろう。
この倦怠が、真田父子には何よりも大敵であった。
始終、生きるか死ぬかで自分を奮い立たせて生きてくると、蟄居(=暇でやることがない)の倦怠の重みは少し理解できる。自分も会社で仕事がないと、本でも読んでいたい気持ちになる。
これが戦争中で、何千何万もの軍勢がうごいている最中なら、忍びの者の人数も、そのうごきの中にふくみこまれ、気配も消えてしまう。関ヶ原前夜の、上方から近江・美濃へかけて多勢の草の者が移動し活動することを得たのも、このことであった。
戦さの気配が出ると、世の中浮き足立つのはいつの時代でも同じことだなと。
「第九巻・二条城」では、いよいよ家康と豊臣秀頼が顔を合わるものの… 淀殿はゴネる。
淀の方をはじめ、豊臣家の人びとも且元同様に、
(このたびも、いつしか無事にすぎてゆく……)
ことを期待しながら、その期待を実現するための行動におもいおよばぬ。
一時は繁栄をほしいままにした一団体、一組織の衰弱が此処に在る。
現実を直視する、高台院(秀吉の正室)や加藤清正などがお膳立てし、ようやく秀頼は家康の元へ赴くが、
今日の、上洛した豊臣秀頼を、群衆が、あれほどの歓呼をもって迎えようとは、清正も幸長も予期していなかった。
(略)これが関東方の目になって見るならば、
(不快きわまる……)
ことであったろう。
逆に関西での秀頼の人気ぶりを目にした家康は危機を察知し、豊臣家撲滅を決心する。
すでに歴史として知っているストーリーではあるが、結構死なずにすむ方法はなかったのかな?といつも思う。
まあ、こうして滅ぶから、滅びの美学として大阪の人たちは豊家(ほうけ)が好きなのかなと。一方、家康も最後の最後まで戦国武将だったかと。
それにしても!
淀君の老女が家康の見解を勘違いするのだけど、そこを
女の直感は、自分に都合の良いようにはたらくものなのである。
ゆえに、的中するときは見事なものだが、当たらぬときは、まるで見当がちがうところではたらいてしまうのだ。
「女の直感」として処理してしまうのは、女としてやや不満。