戦国武将の男の美学を感じる赤ヘル
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「真田太平記」第六巻・家康東下
「真田太平記」第七巻・関ヶ原
池波正太郎(新潮文庫)
前菜は関ヶ原の戦いでメインは大坂夏の陣へ
全12巻の真田太平記も半分まで読んで来て、いくつかポイントが見えてきた。特段ストーリーに影響を及ぼすものではないが、通奏低音(奏者は通奏低音に適切な和音を付けて演奏する)みたいなもの。
石田三成のことを示唆しているのだろうか。
むろん、信幸とて謀略の効用をわきまえているが、謀略などというものは、生涯に三度か二度……いや、煎じつめれば、
(一度のことでよい)
(略)
謀略になれては、かならず謀略に破れる。
毒(ここでは謀略)はたまに服用するから効くのかもです。何に効くのか?
藤田信吉にいわせるなら、織田信長も豊臣秀吉も、
(亡き御屋形様とは、くらべものにならぬ)
御屋形様(おやかたさま)とは、武田信玄のこと。よっぽど戦国武将としては、スケールが大きかったのだろうな。だけど自分は、この主張を一般論より著者の思いの方を強く感じる。
それでもやっぱり、武田信玄は偉大だったのか。隠し味的にこれを強く感じさせる。
だが、諸大名、諸将の大半が、三成を、
「高慢な……」
と看て、かねてより不快の念を抱いていることを吉継は看て取っている。
そうした三成の性格は、吉継にいわせると、
「あまりにも、正直にすぎる……」
ようにおもわれる。
三成の人間性を議論する気はないけど、こういうタイプの人間は現生でも存在していそうで、好き嫌いも明確に出そう。関ヶ原の戦いは日本史でも大きなテーマで、ここで自分はとやかくいうつもりはないものの、縁の薄い(関ヶ原のある)岐阜県を一度は訪れてみたいかなと。
そして
左衛門佐幸村にとっては、
「天下の事などに、さして関心はない……」
といってもよいのではないか。
結局石田三成側についた真田親子(父・次男)は紀州に流刑となるのだが、幸村の関心はそこではないのよね。
第六巻・家康東下で散々関ヶ原の戦いを匂わせておいて、第七巻・関ヶ原となる。
ここでは真田親子の動きより、サブ・テーマとも思える草の根(忍者)の活動に作者の思いが入魂されているように読み取れた。
つまり、一代の英雄であった武田信玄の人格を慕い、信玄のためにはたらくことの生き甲斐をおぼえたからといってよい。
真田に尽くした草の根の人々は、もともと武田のために働いていたのである。
昌幸や幸村、それに信幸などばかりでなく、この時代の、すぐれた男たちの感能はくだくだしい会話や理屈や説明を必要とせぬほどに冴えて磨きぬかれていたのである。
人間と、人間が棲む世界の不合理を、きわめて明確に把握していたのであろう。
人の世は、何処まで行っても合理を見つけ出すことが不可能なのだ。
(略)
人間の肉体は、まことに合理を得ているのだが、そこへ感情というものが加わるため、矛盾が絶えぬのである。
忍者の身体能力をかなり動物的なレベルまで進化させ、非人間的な行動を以って小説を面白くさせているから、池波氏の筆力に読まされてしまう。
いよいよ後半戦だね。