だんだん太宰治が受け入れられそう(かも)
森鴎外&太宰治のお墓を訪ねてみると妙な親近感が
ご両人のお墓はなかなか味わいある雰囲気を醸し出していたので、撮影してしまった。が!それを掲載するつもりだったけど、いざSNSへとなると変な抵抗を感じたので控えることにした。
高校生のころからもう30年弱ほど気になっていて、ようやく足を運んでみた。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「太宰治」井伏鱒二(中公文庫)
なぜ二人のお墓がここにあるのかは別に譲るとして、ご両人だけでなく、もちろん親族も一緒に眠っている。有名人だけど、お墓を参ってみると彼らも生きていたんだなと、妙な親近感が湧いてきた。自分(遠方だからと)つい身内の墓参りもしないのに… おじいさん、おばあさん、ごめんなさい。
井伏が太宰に送ったアンサーソングみたいな1冊
太宰に関するエッセイ、追悼文を集めたものだった。
井伏(1898年〜1993年)は太宰(1909年〜1948年)より年上で、太宰の兄と同じ大学で同学年だったこともあり、腐れ縁?ができたようだった。わりと堅実な井伏と自堕落調な太宰のウマは合わないように勝手に思っていたが、太宰の結婚式を荻窪の井伏宅でするほどだから、親密に付き合っていた。
二人とも「生活が苦しい」と言いつつ、結局地方出身のボン(坊ちゃん)で頼れる実家がある素性が、感覚的に付き合えたのでは?と勝手に推測。そんな偏見を持ちながら、いくつか気になったところを紹介。
- 太宰の死
しかし体力の尽きはてるまで小説を書くのを忘れなかったのは、私には真似られないことだろうと思っている。
作家業を真摯に向き合っているのは、太宰より井伏だと思う。けど、人生を楽しむという点では、井伏の方が器用そうだと感じている。井伏は人付き合いに始まり、絵だとか、釣りだとか、食べることとか、いろいろ楽しめたことに比べ、太宰は本当に「書く」しかなかっんだろうなと思った一文。
- おんなごころ
前者が太宰と一緒になくなった山崎女史のこと、後者が児童文学研究者でもある石井桃子女史のこと
(略)「あたし、いつでも青酸加里、持ってますよ」という文句も、ふざけて云うならともかくも、あくどさという点で只ならないものがある。いい趣味でもない。素足で不気味なものを踏みつけたような気持ちがする。
いろいろ読んでみると、確かに山崎女史の太宰を独占したい気持ちは死へ至るほど強いものがあったと思う。残念なことだけど。
(略)でも、あたしだったら、太宰さんを死なせなかったでしょうよ。」
この才媛は、まだ顔を赤らめていた。
ひとくちに「おんなごころ」といっても、人によって現れかたが違っている。
同じ女として、自分は石井女史の方がやっぱり共感できるな。
女性に対しては不器用そうな井伏が「おんなごころ」としたところが、素敵だ。
- 太宰君の仕事部屋
下記の当時とは、終戦直後のことで
当時、太宰君は私に対して旧知の煩わしさを感じていた。(略)概して気の弱い人は、新しく恋人が出来たり女で苦労したりしているときには、古い友人を避ける傾向がある。(略)
で始まっているが、こういう人間描写を読むのは好きだ。ここは、石井女史のこちらと通じるものがありそうだ。
「東京八景」は、私の知る限りでは、小細工を抜きにして在りのままに書かれている。(略)かつて太宰君の実兄津島文治氏は、太宰君のこの種類の作品について、「あまり自分のことばかり書くと魔がさすものだ。気をつけなくっちゃいけない」と云ったそうである。
と結んでいる。太宰は多く兄弟もいたものの、結局長く?生きながらえた男兄弟はこの兄だけだったようで、スキャンダラスな弟を持つ兄の苦労も伺いしれつつ、人間のやるせなさを書かずにはいられなかった弟との対比を面白く感じた。
こういう文章を読むと、次は東京八景とか読んでみたい!となる。
こちらのツイートが刺さって読んでみた。
井伏鱒二「太宰治」読了。「会ってくれなきゃ死ぬ」と言ってきたり1日数十本も薬物注射したり「左翼になれ」誘ってきたり(井伏は断固拒否)今なら絶対縁切りたいタイプ。でも井伏はよく面倒を見る。死後も酒飲んでると「こうしてると太宰が来そうだ」と懐かしむ。ほっとけない人だったんだな。 pic.twitter.com/9p3R0PbpJz
— sbkivi (@sbkivi1) 2018年9月22日
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