亀戸天神社「梅まつり」へ行ってみた。「藤まつり」も行きたい。
亀戸天神社「梅まつり」へ
この地域は、どうしてもスカイツリーが写り込む。
ちょと今年こそ「藤まつり」も来てみたい。
葛飾北斎の娘、お栄さんの話。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「眩(くらら)」
朝井まかて(新潮文庫)
お栄さんと善次郎が気になって
以前、杉浦日向子女史による「百日紅」を読んで、お栄さんの存在は気になっていた。
自分は「百日紅」の固定概念に縛られているが、この小説は少し違った。善次郎(北斎の弟子でもある絵師)の男ぶりが眩しくて、だけど小説の主題はお栄さんの生き様である。十二章から構成されている。
当初、なかなか小説の世界に入れなかったが、段々とお栄の画業が深みを増し、善次郎にも一目置かれるようになると、俄然面白くなった。
- 第一章 悪玉踊り
- 第二章 カナアリア
女の絵が得意な善次郎がお栄に放つ言葉。この感じでは「百日紅」と共通していた。
「おい、言っとくが、絵の腕はまだ俺の方が上だからな。これは己惚れじゃねえぞ。はっきり言っとくが、お前ぇの美人画には艶がねえ。線が硬い」
- 第三章 揚羽
- 第四章 花魁と禿図
- 第五章 手踊図
- 第六章 柚子
- 第七章 鶯(字が微妙に異なるが…)
善次郎と先行きのない男と女の関係になる。が!このお栄の達観がいい。この辺は「百日紅」と異なる。
そう、束の間の逢瀬に酔いどれるだけでいい。先行きのない、この無為がいい。
亀戸天神社や深川へ行ったりする。自分はこれまで西東京で生きてきたから、この辺の土地勘が乏しかったけど、この数年仕事で東東京へ通うことが増え、なかなかに馴染んできた。慣れてくると、いろいろと気になって来る。
関東大震災や東京大空襲ですっかり焼き尽くされたか、昔の面影はあるようなないような。
- 第八章 冨嶽三十六景
ここでパパ北斎が「景色物(けいしょくもの)」で勝負に出る。
売れ行きが見込めるのは美人画か役者絵で、つまり今、生きているこの浮世のさまざまを描いた絵を人々は好んで購う。土地の景色を描いたものは華やかさに欠けがちなので人気を得にくく、これまで手掛けた板元は大抵、出板を打ち切ってきた。
一方、善次郎はアイディアが尽きたか、絵から遠ざかり所帯を構えたせいか、お栄とも自然に疎遠となる。
ゆえに善次郎のことを思い出すのは、夜、仕事を終えて呑む時だけだ。己に手職があって良かったと、お栄は思う。
没頭できる世界があるのは救われるなと。
- 第九章 夜桜美人図
パパ北斎の執念の根幹を描いているが、人間何事も絶え間なく繰り返すことに自分も意義を感じているだけに、こういう姿勢はすごく刺さる。
親父どのにとっては毎日描く、これが大事なのだ。
中気を患って以来、(略)ともかく続けることで心願が成就すると信じている。
- 第十章 三曲合奏図
- 第十一章 冨士越龍図
- 第十二章 吉原格子先之図
善次郎と疎遠なり、やがて善次郎は呆気なく死んでしまう。お栄自身もすっかり乾いた気持ちになっているが、(個人的には)残念にもこの辺から小説の勢いまで乏しく感じられてしまった。
そして最後に、今回の紹介では触れなかったが、善次郎との関係以外にも、もう一つ太い伏線がある。パパ北斎とお栄を苦しめる出来損ないの孫(お栄には甥)の話。その甥が小説の最後で一波乱起こす。
(略)人の顔というのは恐ろしいものだ。お栄より遥かに整っていたはずのそれは、胡散臭さをそのまま物語っていた。大した悪事を働けず泥水を啜る覚悟も持てず、たぶんその時々、力のある者にくっついて、いいように遣われてきたのだろう。その鬱憤は己より弱い者を痛めつけることで晴らす。
人の顔の表示にも語らせる感じが、絵師たちの話として絵画的で面白いと思った。
著者の思惑とは異なると思うが、この善次郎の生き様が隠し味として、この小説にスパイシーな雰囲気を漂わせ、最近は浮世絵が気になって仕方がない。
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テレビドラマはこれ!
善次郎役の松田龍平が好み。
この1冊でした
- 作者:朝井 まかて
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/09/28
- メディア: 文庫