栗は木から落ちる実
栗の美味しい季節だぜ。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「地獄変・偸盗」
芥川龍之介(新潮文庫)
王朝物や古典を題材にしても結末はかなりシリアス
芥川作品を比較的順を追って(新潮文庫で)読んでいる。有名な作品のあらすじは知っているが、それを書いた著者の思いまで想像しながら読んでいる。
晩年(たかだか35歳)いかに心を病めてしまったのかを想像している。そこまで人生を深刻に捉えると、辛いなと。
いわゆる中期と言われているこの時期は、まだ芸術至上主義的な側面が強く感じられるが、現代に感覚で語ってしまうとオタクに近い感覚もあるのだろうか。
- 偸盗(ちゅうとう)
盗っ人な人々のお話です。
まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今は一しきりとだえて、唯さっき通った牛車の轍が長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇(ながむし)も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、何時か脂ギッタ腹を上へ向けて、もう鱗一つ動かさないようになってしまった。
蛇は縁起物と言われているようだけど、このような描かれ方をすると怖い。
恐怖心をあおる描写だな。
次郎は、沙金の眼が、野猫のように鋭く、自分を見つめているのを感じた。そうして、その眼の中に、恐ろしい力があって、それが次第に自分の意思を、麻痺させようとするのを感じた。
この話が個人的に面白いと思えたのが、ただの盗っ人な人々の話ではなく、沙金という名の魔性な女性が登場する点である。自分は有名な「地獄変」より、この盗人話の方が好き。
- 地獄変
芥川作品でも一際有名だから、自分が何かを言うほどのこともなく。芸術至上主義な一作で、なるほど… と完璧な感じです。
続く、次の三作品も割と知られているが(正直)解説を読まないと、自分の想像が及ばない点もあった。どれも「え? で、そのこころは?」と問いたくなる結末なのだが、登場人物の一途な行動や姿勢が読みどころらしい。
- 竜
- 往生絵巻
- 藪の中
この一途な姿勢を自分は理解できなかったが、自分も含めて今の人たちは雑念にまみれて生活しているから、その姿勢を理解するのは難しいよ!と。
今の世の中、良くも悪くも雑念が多い。
で、最後の一作も分かりにくかったが、読み終えてしまえば、割と好きな作品だった。
- 六の宮の姫君
世間知らずまま育った姫君、唯一頼りにしている男(下記の男)が遠い転勤先からの帰ってくるのを待ちわびながら死んでゆく(だけの)話。しかも、その男は転勤先で父親の目に適った女性と結婚する。
「あの音は何じゃ?」
男はふと驚いたように、静かな月明かりの軒を見上げた。その時なぜか男の胸には、はっきり姫君の姿が浮かんでいた。
「栗の実が落ちたのでございましょう」
常陸の妻はそう答えながら、ふつつかに銚子の酒をさした。
男(常陸の妻から見れば夫)が都に自分の知らない思いを寄せている女性(姫君)がいるとも知らず、男の思いを「栗の実が落ちた」と片付けてしまうところに、自分は面白みを感じた。
栗の実が落ちるだけで、この夫婦の気持ちがてんでバラバラなところがいい。
それでいて、姫は独り寂しく死ぬ。ところが姫は、男が姫を思うほど男を思ってはいない。ただ、惰性な流れて知り合った男を、惰性で思っている。
幸い死に目に間に合う男は僧侶から
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ」
と言われる。これだけでは、芥川が何を描きたかったのか、全く自分には通じなかったのだけど、
解説で
俗世間に煩わされがちな彼にとって、道に徹しきった荒くれ五位の一途さは、もっとも尊敬に値すれば、仰望もしたい心境だった。
とあるのを読み(上記引用での彼は「芥川龍之介」のこと)、
芥川はこの姫の「一途さがない」ことを描きたかったと知り驚いた。
それを「腑甲斐ない女の魂」とまで言うのだが、実はそこに自分を重ねていたらしいと知り、自分を追い詰めつつあるなと深読みをした。
一途に生きるって、わりと大変だと思う。
この1冊でした
かみ締めて読めば、芥川はやっぱり面白いかも。