お江戸の雰囲気が残っている土地「愛宕山」
「姉さん、芝の愛宕様じゃありませんよ」知ってる土地を身近に感じた
漱石の前期3部作から読み始め、いよいよ後期3部作でも第2作目、自分なりの漱石解釈もできてきたのだが。
小説に自分の知っている土地が話題に出て、その雰囲気が残っていると再開発が進む東京でも、妙な安堵感を味わえる。
「姉さん、芝の愛宕様じゃありませんよ」と自分は云って遣った。
「だって遠眼鏡位あったって好いじゃありませんか」と嫂はまだ不足を並べていた。
ただ高いビルに囲まれ、江戸湾が全く見えないのは残念な限り。
こちらを紹介。
「こうじん」と読むらしい。
『彼岸過迄』に続く、後期3部作の2作目。少し哲学的な香り漂うタイトルで字面は好みだが、本当はもっと具体的にストレートでわかりやすいのがいいと思っている。
大きく次の4章から成る。もっとスルスル読めるかと思いきや、意外に時間を要した。
- 友達
- 兄
- 帰ってから
- 塵労(じんろう)
「友達」は「兄」の思いに説得性を与える前座みたいなものだった。この小説はざっくり言い切ってしまうと、兄(一郎)の悩みがテーマ、当初その悩みは兄の嫁に対する理解の不一致?かなと読み取れた。
前座はサクッと読めたものの、「兄」は第1部『彼岸過迄』の告白文のように少々鬱陶しい告白があるけど、そこがあるから続きが盛り上がってくる仕掛け。そこに(自分は)漱石の醍醐味を感じるようになったので、ワクワクして読み進めたのだが。
まず、兄とはいかのような人物。
彼は事件の断面を驚くばかり鮮かに覚えている代りに、場所の名や年月を忘れてしまう癖があった。それで彼は平気でいた。
それでいて
「噫々(ああああ)女も気狂にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」
とのたまう。傲慢な。
「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」
これも兄のセリフ。書かれた時代が時代なので、多少の傲慢を割り引いて兄が自分の好みのタイプだとわかってくると、どうしても兄に肩入れする読み方になってくる。
一方、兄嫁(狂言回しが弟・二郎の目線のため)の描写では
(略)その言葉の終わらないうちに涙をぽろぽろと落とした。
「妾(あたし)のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。然し私はこれで満足です。これで沢山です。兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はない積です。その位の事は二郎さんも大抵見ていて解りそうなもんだのに……」
嫂が健気で仕方がなくなってくる!
「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物も含んでいなかった。
二郎からみた兄嫁の描写。思わず笑ってしまったが、割り切りのできている女性を自分は肯定できる。
平成末期の現在でも通用しそうなこの兄嫁を、古風な兄は「女の気持ちはわからない」と苦悩する話しなのかな?と結末が予測できず軽いフラストレーションを携えながら読み進めていったのに…
この辺りまでは、現在にも通じそうな人間関係の不信感を描いていて(かなり)楽しく読んでいたのにのに。
また理屈っぽい漱石、ではなく兄さんが出てくる。
「そりゃ己も知ってる。お前の云う通りだ。今の日本の社会はーーことによったら西洋もそうかも知れないけれどもーー皆な上滑りの御上手ものだけが存在し得るように出来上がっているんだから仕方がない」
正直、自分にとっては割り切れぬまま結末となった。
(自分が思うに)
各小説、描きたいテーマがあって、漱石はそれを表現するために身近の出来事を借りて描くのだけど、そこの部分は(時代を超えて)非常に面白く読める。が!最後は妙に観念的に結論付けようとして急に息苦しくなって面白くなくなる。
ということで、後期3部作の最終作「こころ」に期待したい。
中学(訂正。高校ですね)の国語の教科書にも出ていた話で、あの年齢では全く理解できなかった。あのときの気持ちにも落とし前、つけたい!