手押しポンプを眺めつつ昭和を思い出す
親が旺文社勤務で、そのおかげで自分は成長したので(少なからず)感謝の思いがある。もはや新刊はでない旺文社文庫だけど、たまに見かけると「すごく」心が動く。
本のタイトル | 昭和べエゴマ奇譚 |
著者名 | 滝田ゆう |
出版社 | 旺文社文庫 |
「滝田ゆう」と「寺島町奇譚」
もともとは、この本を先に入手していて「滝田ゆう」という名前だけ認識があった。すると、ある日「寺島町奇譚」に遭遇したことで幸いにも両書を並行して読むことができた。
サブタイトルには「字あまりエッセー」とあり、この妙なタイトル付にセンスを感じる。本のタイトル「昭和べエゴマ奇譚」以外の作品は次のとおり。昭和生まれの自分にとっては、段々薄れてゆく過去の雰囲気を思い出させてくれる味わいがあった。
- 昭和べエゴマ奇譚
- うたかたの酒
- 論壇登場
- 桃子雑感・心象風景
- 泥鰌庵朦朧日記
昭和べエゴマ奇譚
「寺島町奇譚」の解説書みたいな感じだった。自分をなぞらえた主人公キヨシについて、
さればキヨシの生い立ちは継父母異兄姉謎のお婆出身地不明のネコのタマとあつくるしいキャスティングながらエンエンとつづくのだが、なんせ記憶はおぼろ。育った玉の井界隈もやがて戦火に消えて(以下、略)
キヨシはべエゴマが大好きなのだが、いいとこの子はべエゴマなどやらずに見ている。その見ているいい子を客観的に捉えているところに自分はつい笑える。
そして、なるほどそういや、いいとこの子つうのがベエやってんの見たことないが、そばでぼんやり見てんのは見たことある。
最後は!キヨシ(自分自身かな?)が、私娼街として育った街で本当に肌を合わせる機会を持たなかったことを分析しているのであった。
今はすでに町ぐるみ消えてしまった、わが幻の風景としてのふるさと願望がそう思わせるのか。そこはせめて、肌からじかに感じとっておくべき最後の部分であったかもしれない、それをはぶいてしまった愚かさへの嘆きなのでしょうか……。
論壇登場
全体的に、自分の過ぎ去った過去や戦火で消え去った街への回想が多いのだが、変に細かい点にこだわりを見せる。
細かい点とは、テレビドラマで温かい料理を食べる場面に湯気が出ていない、ということで、そこに「食べる」ことへの「おざなり」(いい加減な対応)を指摘しているのだけど… そう思うと、この令和の時代なんて、利便性と引き換えに多くのことを「おざなり」にしているなと思ってしまった。
それは一事が万事。ドラマを作る側も、見る側も、それぞれの暮しの中で、やれインフレだ、物価高だ、節約だ、生活の知恵だといいながら、じつは御座なり。ついでに飯を食うという精神では、しょせん、湯気の向こうに、人間本来の安らぎを見ることはない。
wikipedia を読むと「滝田ゆう」は晩年東京国立に住んでいたようだ。時期からすると、自分が国立(正確には国分寺市だけど)で暮らしていたころだから、ひょっとするとどこかで、すれ違ったこともあったのかな。