庄野潤三氏ブームが自分に到来中!
出会ったら忘れられない甕の存在感
庄野家に鎮座する備前焼の甕(かめ)、訴えてくるものがある(気がする)!
収まるべきところに収まっていた。
この甕のことが登場する、こちらを紹介したい。
「夕べの雲」
庄野潤三(講談社文芸文庫)
地元杉並区ともゆかりのある作家として、また自分の好奇心の範囲下でよく出会う小説家として、庄野潤三氏の作品を読んでみたいと思っていたところ!
Twitterでご紹介いただいたのです。
何から読んでよいのか、足踏み?していただけに嬉しかった。
恐縮です。返信が遅れ済みません。
それでは『夕べの雲』などは如何でしょう?日常を作るふとした光景へのまなざしを庄野潤三が獲得し、その後の方向性を決定付けた、記念碑のような作品だと思っています。 pic.twitter.com/HMZhJ4rjuW— 片上長閑 (@kokeshi777sada) 2019年2月2日
感謝。
すると、何とちょうど舞台となったお家の公開日が間近であって!しかも、大雪予想で当初の予定がキャンセルとなり予定が空いた。
「大きな甕」に象徴されるもの
素人?自分が今さら庄野作品を評論するなど、厚かましいことはできない(しない)。
そもそもは日経新聞の夕刊に掲載された新聞小説とのことだが、ここでは13章からなる。
- 一章 萩
- 二章 終わりと始まり
- 三章 ピアノの上
- 四章 コヨーテの歌
- 五章 金木犀
- 六章 大きな甕
- 七章 ムカデ
- 八章 山茶花
- 九章 松のたんこぶ
- 十章 山芋
- 十一章 雷
- 十二章 期末テスト
- 十三章 春蘭
「衝撃の結末!」などない家庭小説を読む場合、無意識下で行われている次のような行動を意識したい。
「一章 萩」より
ひとところに暮らしていると、長い年月の間にそこでいちばん住みよいようにあらゆる努力をしているものだ。
そこから、ドラマが描かれている。続いて、
「四章 コヨーテの歌」より
中年に達した大浦のような男が、ラビットとタイガーの運命に一喜一憂するのは、漫画の世界の出来事でありながら彼等がいつも旅をしているという一点で、どこかわれわれの送っている尋常な人生に似たところがあるからであった。
共感できるか、否か。そして、甕の逸話。ここでの「大浦」は著者自身で、「飯沼さん」は井伏氏なのかな。実話の有無にこだわりはないが、本質的な部分は実話に基づいているのだろうな… と想像を膨らませて読む。
「六章 大きな甕」より
「それよりも、甕の方はいま飯沼さんがいって下さった時に買わなかったら、今度いつか、ほしいと思っても、もう無いでしょうね」
大浦はすぐに電話で飯沼さんにその話をして、持主である小鶴旅館にあてて、問合せの手紙を出すことにした。
大きな買い物に意味を含めてはいけないと思いつつ、人はそういうところに意味を持たせてしまうに違いない。自分だって… (以下、略)
甕が着いたのが六月の末で、大浦と細君が初めてこの丘陵へ土地を見に来たのは、それから一月あとであった。まだ家が売れるはっきりしためどがないのに、
「買うならここだ」
と大浦は思った。
すると、間もなく家の買手が決った。
甕が来たことと家が売れて引越しが出来るようになったことの間には、関係はない。しかし、(略)
と、小説のネタになった甕が上記の写真であり、引っ越し先となった丘陵への土地に建った家がこちらのこと。
多かれ少なかれ、誰にもこれと似たような話はあると思う。
だけど、もはや作家も物故となり何十年後まで小説は読み継がれ、そこで描かれていた家や家族とリアルタイムで他人である読者(自分みないな人々)が出会って小説の話題を共有して楽しめるなど、奇跡に近いことではと思う。
できそうでできないこと、近頃の世知辛い世の中でも、そんな体験ができたことに感謝している。
庄野潤三氏生誕100周年となる2021年まで、年二回の公開を予定しているとのこと。
少しでも多くの人が、この小説のように心穏やかで丁寧な日々を過ごせるとよいなと。