池田善次郎のお墓がうちの近所にあった
驚いた!
墓所は杉並区高円寺南2-40-5の福寿院(東京都指定旧跡)にひっそりと佇んでいた。ここにある必然性もなく、ただの偶然でたまたま流れついただけなのだろうが、うっすら親近感がわく。
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
みだら英泉
皆川博子(河出文庫)
善次郎とはゴッホが模写した「雲龍打掛の花魁」の浮世絵師だった
自分もゴッホが模写した花魁を知ってはいたが、それが善次郎こと渓斎英泉だというのは、今回初めて知った。そして、もう少しこの浮世絵師のことを知りたくなって、この1冊にたどりついた。
これまで善次郎や北斎の娘お栄が登場した「百日紅」「眩(くらら)」に比べると、怪しい毒を感じらせる内容だった。
まず著者がお栄に放ただせる。
親花から採れる種子は三通りにわかれる。
病いが顕現して、華麗妖異な狂い花を咲かせ、一代で絶えるものと、親花同様に病いの血をひそめ持ちながら何くわぬ顔で平凡な花を咲かせ、妖花の血を子供に伝えるもの、そうして、全く病いを受け継がぬ健やかで凡庸な種子。
(略)
善次、おまえの妹も、そういやあ、三人だな。いずうれ、三通りに咲きわかれるかもしれねえよ。
この三人の妹が素材?となって、善次郎の話は進む。
一方、今回のお栄は投げやり調の江戸っ子だけど、けして冷たい訳ではない。
「さあな」お栄は、はぐらかした。
「あの……兄さんにいくらうるさがられても、お飯の世話ぐらい、わたしがしてやらないくては」
「何、長屋の女どものが、放ってはおかねえわ。若くて独り者で男前だ。その上、世渡りが下手で酒くらいで危っかしいと、三拍子も四拍子も揃っている」
しっかり者の妹に放つ言葉も、意地悪を言うのではない。実際、善次郎は女性が放っておかないタイプの男性だったのだろう(と善次郎ファンの自分は信じたい)。
そして「眩(くらら)」と同じように、ここでも最後に善次郎の生き様は失速してしまう。
よほどの見巧者でなければ見間違えるほど、二人の画風は接近してきていた。(略)国貞も、彼と同様、”いまの女”の表現を模索しているのだ。しかし、国貞の暮らしぶりには、彼よりよほど余裕が感じられた。ゆったり、のどかに遊びながら、彼の飢え苛立った眼と同じものを、国貞はみつめ掴みとった。英泉は、そう感じた。
ちなみに「眩(くらら)」はこちらで紹介しているので、是非に!
そして、初めて皆川博子さんという作家を知った。wikipedia によれば
様々なジャンルにわたる創作活動を行うが、中井英夫や赤江瀑などの作家への敬愛から生まれた幻想文学、または幻想的なミステリにおいて知られる。
とある。手書きで文章を綴る作家かな?
今回読みながら、そんなことを感じた。幻想という言葉にすごくひかれるので、他の作品を読んでみたい。プチ発見。