以前から、読んでみたいと思っていた作家で積読からの選択っす。
本のタイトル | アメリカの鱒釣り |
著者名 | リチャード・ブローティガン |
訳者名 | 藤本和子 |
出版社 | 新潮文庫 |
数ページのポエムのような短編で65作品によって成っている。
自分にとってどう捉えていいのか模索中
正直、こういう作品をどう楽しんでよいのか自分ではわからずにいる。
あまり意味を深く考えてはいけないと思いつつ、微妙に緩い感じでつながっているところに、1冊の本としての存在を感じる。それでいて、謎な「アメリカの鱒釣り」というタイトルの意味も、読みながら感じることができれば上等なのかなと。
しかし、理屈抜きにまず表紙に惹かれた。
カバー装幀として平野甲賀氏の名前が記載されているけど、こちらはあまり氏の特色は感じられない。しかし、表紙の写真は多分原書からの流用なのか、実は本の内容とはとても強くシンクロしている。
目次でも著者自ら述べている。
スミソニアン研究所に陳列されて然るべきだというような類の誘惑がある。「スピリット・オブ・セントルイス号」(リンドバーグの飛行機)と並べて置くのがふさわしいような――
記述に登場する事物には、アメリカならではの豆知識が埋まっていて、それをわかっていないと意味不明は深まる。
子供のとき、ガラクタをお気に入りとして集める感覚に似ているのかもしれない。一般的なアメリカ人(低所得者寄り)の日常生活的な感覚を言葉で表現している…とでも言うのか。徹底してブローティガンを訳してきた訳者ならではなのかもしれない。
「ソルト・クリークのコヨーテ」
実際、ラジオで死刑のニュースが流れたことをベースにしているとか。
国家事業としての死刑の苛酷さは、列車が出て行ってしまうと、もう線路には歌声も聞こえない、線路には震動さえも伝わってこない、そういう苛酷さだ。
アル中の雰囲気が漂うところはブコウスキーと似てると思ったけど、決定的に違うと自分が感じた点は、ブコウスキーが為るままに任せて話を進行させているのに対して、ブローティガンは案外しっかりオチまで考えて話を進めているかなと。
「<アメリカの鱒釣りホテル>二〇八号室」
この章で登場する新しい知人夫婦の猫の名前が二〇八なのだけど
友人を保釈で出してもらうために裁判所へ行った。そこで、<二〇八>は保釈関係の事務を扱う部屋番号であることを発見した。(略)<二〇八>は山復を下る雪どけの水のように、一匹の小柄な猫のところまではるばる流れていったのだった。(略)<アメリカの鱒釣りホテル>に暮らす一匹の猫のところまで、それは流れていったのだった。
「アメリカの鱒釣り」とは、極論を言うと”一般的なアメリカ人”として想定している登場人物たちなのかもだけど、著者自身思い入れのある行為なのかなと。そもそも、アメリカで鱒釣りがどれほど一般的かは自分は測りかねる。その辺りの認識に誤差があると、この小説の醍醐味が薄れてしまうかも。
ちなみに、wikipediaでのブローティガンの人物説明から引用すると
かなり飛躍した比喩を用い、深い心理描写を故意に欠いた文体で独特の幻想世界を築く。アメリカン・ドリームから遠く隔たった、どちらかと言えば落伍者的、社会的弱者風の人々の孤立した生活を掬う。
とあり、学歴とは関係なく日々の生活から独特の感性で文を綴ったところに素晴らしさを感じるものの、最期はピストル自殺で自らこの世を去ってしまったことに、生き続けることへの不安を感じてしまったかな。
あと2冊積んであるので、これを機会にブローティガンに浸ってみる。
この1冊でした(Amazon)
残念にも帯が邪魔ですな。