ユダヤ系作家のかなり皮肉な都会(ニューヨークとかパリ)での日常生活の話、無条件に好きだ。華やかな都会での実生活はとても現実的だなと感じる。これが、ロンドンやベルリンだとピィんとこないところに、ニューヨークやパリの特異な雰囲気があると思う。
本のタイトル | この日をつかめ |
著者名 | ソール・ベロー |
訳者名 | 大浦暁生 |
出版社 | 新潮文庫 |
だいぶむかし、ニューヨーク旅行から帰ったとき恋しくなってなんとなく買って、長らく積んでおいた1冊。
文庫本の表紙は新潮文庫らしくないなと感じた
いきなりだけど、訳者による「あとがき」より
第二次世界大戦後のアメリカで活躍が目ざましいユダヤ系作家たちの中でも、ソール・ベローがその第一人者であり、フォークナーやヘミングウェイなきあとのアメリカ文学をになう大きな存在のひとつであることは、いまやほとんど衆目の一致するところとなっている。
ベローという作家の位置付けとして紹介、続いて作品の紹介として、
四十四歳という、人生の峠をすでに越えたかに見える一人の男の危機的な一日を追うこの作品は、すべてを失って頼るものもなく、自分ひとりだけの姿になった究極の状態における人間存在の意味を問い、その状況の中でいかにして救いが得られるかを探求する。
結構、一気に読み通せてしまう。むかしの字詰の文庫本で190ページ足らずの量で7章から成り、すぐ読めそうな量だけど、いちいち内容を噛み締めつつ読むと意外に時間を要する感じ。
前半で、主人公の四十四歳男の置かれた絶望的?な状況が描かれる。
その後、この男をさらに追い込むシチュエーションとして、男が助けを求め勝ち組?と思われる父親との会話が描かれる。
中間部分の第4章で、
もしかすると、あやまちをおかすことが自分の人生の目的そのもの、自分がここに存在していることの本質を表わすものかもしれない。
こういうところが、ユダヤ人の発想っぽいのかなと。
なかでもいちばんひどいのが実業家たち、これ見よがしに騒ぎまわる無情な資本家階級で、信じられないほど冷酷な態度、大胆な嘘、ばかげた言葉などによってこの国を支配しているのだ。
と続く。この辺は、ユダヤ系商人とアメリカ資本系の発想を彷彿させるかな。
そして、父親が否定するタムキン(名前も怪しい)という怪しい男との会話では、
「ぼくは金をとらないときがいちばんいい仕事ができる。ただ愛情からやるとき、金銭の報酬を受けないときがね。(略)人びとを『いま・ここ』という時へ導き入れることができればいい。本当の世界、つまり現在という瞬間へ。過去はもう役にはたたない。未来は不安でいっぱいだ。ただ現在だけが、『いま・ここ』だけが実在のものなんだよ。この時をーーこの日をつかめ、だ」
タイトルはここから来ているらしい。
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この1冊でした(Amazon)
表紙は「カバー 前川直」とある。誰だろう、気になるとネットを検索すると、吉行淳之介が好んで自らの著作の装丁を依頼した銅版画家がヒットしたけど、同一人物なのかな? 昭和48年の文庫本だけど、最近むかしの文庫本の装丁が気になって仕方がない。