長年気になって、やがて積んでいた1冊をようやく読んだ。
本のタイトル | ポロポロ |
著者名 | 田中小実昌 |
出版社 | 河出文庫 |
軍隊の笑えないコケティッシュな一瞬をすくう
1977年〜1979年に中央公論の文芸雑誌「海」に発表した次の作品が収められていた。
- ポロポロ
- 北川はぼくに
- 岩塩の袋
- 魚撃ち
- 鏡の顔
- 寝台の穴
- 大尾のこと
「ポロポロ」は軍隊に行く前のコミ氏の両親の宗教活動の様子をポロポロという言葉で総括している話。それ以外は、軍隊における過酷な行軍生活で下痢と闘い辺りに死が溢れるなかで生き延びた日常の、わずかな瞬間を捉えている話だった。どこまで実話で、どこからが架空なのか境界線も曖昧だけど、この状況で生き延びたコミ氏は、精神的にも肉体的にも運命的にも恵まれていたのかと。
ポロポロ
ポロポロの由来を説明した一文。
ポロポロのもとは、使徒パウロだろう。しかし、一木さんは、パウロ先生の霊に、いつもゆさぶられていたかもしれないけど、これは、やはり、祈りのとき、ぽろぽろ、と一木さんの口からこぼれでたものにちがいない。
そもそもは、1人の「パウロ」と祈る言葉からコミ氏が感じた言葉のようだが、最後の一文に象徴するよう、なんでもポロポロで結論づけてしまう。
くりかえすけど、父にとっては、死んだおじいさんが、記念日の祈祷会の夜にやってきたとしてもポロポロ、ちがう人だとしてもポロポロで、ただポロポロなのだ。
この強引さが魅力だと思った。
鏡の顔
強引以外にも魅力だったのが、コミ氏の非常に客観的にある種覚めた感覚だと思う。
くりかえすが、内地にはかえりたい。父母や妹にもあいたい。だが、死ぬ前に、内地にかえり、父母や妹にあいたい…… というフレーズにはならないのだ。
ひとには、ごくふつうにあって、ぼくに欠けてるものは、このフレーズが成立しないことかもしれない。
それと、微妙な変化を見逃さない。そこから発想を飛躍させている。
帽子のかぶりかたみたいな、瑣末な、どうでもいいようなことが、なにかひととちがうのは、とくべつ奇異な服装をする者などより、かなり、どうしようもなく変ってることがおおい。
寝台の穴
覚めた感覚で軍隊の過酷をコケティッシュに描くものの、時に危険も指摘し読者に緊張を強いる。
その初年兵は関西弁でおもしろそうに説明した。しゃべりかたも陽気だった。初年兵がなにかをおもしろがったり、陽気だったりするのは、身をまもるのに危険だ。
人生で一番楽しい時期を戦争で消費してしまうほど、救われない思いはないと思っている。その分、自分が生まれた時代に感謝して、平和は守りたいなと(一応)強く思っている。