小説の舞台が吉祥寺で読んでてリアルな情景が浮かぶ
現代小説を読むのは久しぶりだったので、その世界に入れるか不安だったけど…
この写真にちなんで、こちらを紹介したい。
「しゃべれども しゃべれども」
佐藤多佳子(新潮文庫)
吉祥寺の実家は井の頭公園の近くにある。じいさんが死んだ後、ばあさんは人形町の蕎麦屋をたたんで、住家の二階もろとも人に売り、武蔵野の古い家を買った。
読み始めてすぐ「中央線を武蔵境で降り、昨夜電話で聞いた道をとぼとぼと歩くと、」と自分にとってローカルな描写に出会うと、急に小説空間がリアルなものになって物語の世界に入り込めた。
落語をテーマに何が描かれるのかなと
最近、現代の小説をあまり読んでなく、その小説世界に浸れるか軽く心配していた。
それでも、吉祥寺という身近な地名が舞台で興味を抱いている落語がテーマだっただけに、読み始めるとあっという間に読み終えた。とは言うものの、ストーリーはどのような方向へ進むのか不明だったので、
「一番易しいので結構です。藁にもすがる思いなんです」
まさに、すがるように、ひたと見つめられた。弱った。女神に懇願されて重ねて断るのはむずかしい。
藁にされるのは面白くなかったが、まあ、しかし、藁ぐらいの期待で済むなら、『まんじゅうこわい』でも教えてやるかと思った。
ダジャレ系の文章を楽しんでいた。
そして、ああ、吉祥寺の井の頭公園(先の画像)そのものに出くわす。
足漕ぎボートの白鳥が、もう店じまいでつながれて、ぞろりぞろりと並んで揺れているのが、なんだか不思議なような哀れなような気がして、そんな感傷は、秋の夕風のせいか、図書館の本のほこりが脳につまったせいか、仕事に悩んで弱気になったせいか、まったく俺らしくないことだった。
足漕ぎボートの白鳥が哀愁をそそる。
それでも!後半になるにつれ、ストーリーが展開する。一応、話題にも映画化にもなった小説なので、ダジャレや吉祥寺ネタで終わる訳はない。
イジメの本質ではないが、この小説の重要な登場人物の一人(小学3年、村林優)の悩みが現れる。
「両方カッカして喧嘩してるんじゃないと思うな。優君がすぐカッカくるから、面白がってるだけじゃないかな。というか、不愉快なんだよね。努力しなくても何でも出来る子ってさ、ダーッて一直線に頑張る子が目障りなんだよね。(略)」
そうか。これまで意識してなかったけど、確かにダーッとくる人って時に誤解を招きやすいよねと。
八方破だった以前の方が、噺としては面白く聞けた。色気が出たぶん、無邪気さが失せた。うまくやろうとすると、とたんにうまくなくなる。これは俺自身、通ってきた道で、今後もぶつかるだろう難所だった。
何でも意図的に仕組む振る舞いは嘘臭くなり、泥臭くさくてもダッーと来るピュアな感動ってあるなと。
ということで、「気軽に楽しく読めた」と言い切ってしまえば、軽々しく著者に失礼だけど… 一生懸命取り組む姿勢のピュアな感覚を改めて感じられたのが良かった。
自分は割と映画化(ドラマ化も)となった小説読むの好きで、比べて違いを味わうことを楽しんでいる。
映画はこれ!
こちらの映画で、国分太一氏を好きになっ(てしまっ)た。
youtu.be
国分氏の着物姿が良かったなと。